知性と愛情

知性というものには個人差があり、頭のいい人と頭の悪い人には格差が出来る。

 

近年、肉体的ないじめが少なくなっているように感じるが、その一方で精神的ないじめが目立つようになってきた。テストの点数や、IQなど数字で表せるものは他人と比べる判断材料となり、いじめの原因になることが多いように思う。

 

筋肉隆々の人に殴られると、とてつもなく痛いように、知性が高い人の思いやりや愛情を持たない言葉は、凶器になることだってある。ネットの世界では匿名での誹謗中傷が日常的に飛び交っている。大半が粗探しをした指摘のように思える。言葉の使い方や、矛盾点をついたような指摘、それらの知性の高い人からの指摘というものはありがたいものも多ければ、傷つくことも多い。

 

デールカーネギーの書籍 「こうすれば必ず人は動く」でもこういっている。

 

「その人自身の過ちに気づかせなければならないならば、その人の感情を傷つけないように、上手に、思いやりを持って行うこと。その人の面目が保たれるようにすること」

 

なぜ他人の面目を保つ必要があるのか。と思う人も居るかもしれないが、私たちは皆他人と共存している。他人が作った野菜や米を食べ、他人が作った家に住み、他人が作ったもので仕事や、勉強をしている。自分でできることなんてごく僅かだと思う。会社でも自分一人が頑張っているような態度をとる人や、他の部署の仲間を見下す人がいるが、全て他人と関わって作り上げているもので、他人がいなければ生きていけないのが現実だ。

 

他人と自分を比べ、見下し、蹴落とすような社会では共存はできない。

 

Twitterでも現実でも、他人へ指摘する人たちは、ある程度自分の知性に自信を持っている人たちだろう。自分に自信を持ち、指摘するだけの知性があるのならば、その使い方を間違ってはいけない。

 

知性だけではなく、あなたに愛情があれば、周囲に愛される人間に近づけるのではないだろうか。